『秒速5センチメートル』という作品は私の中でもお気に入りの作品の一つである。
今回は小説版の『秒速センチメートル』という作品について見ていこうと思う。
桜花抄
3部に分かれる第1部、「桜花抄」では主人公・貴樹と明里の小学校~中学校、そして貴樹が九州へ転校する直前の別れが描かれている。
本記事では「桜花抄」前半部分に着目していこうと思う。
軸がない思春期
20代中盤となった私にとって”人生の軸”はいくつもある。
生きる指標、自分にとって大切なもの、逃げ道や幸せな時間と言い換えてもいいだろう。
例えばそれは本であったり、食であったり外をぶらつくことであったりする。
あるいは過去の幸せな思い出を頼りにすることもある。
しかし、これらのことは自分が大人へのステップを踏み、人として自立し、一人でできる裁量が増えたからでこそできたことである。
または自分が人生を歩み、経験がある程度増えたからでもある。
ただ未成年であればそうもいかない。
特に「桜花抄」で描かれた貴樹と明里のような小学生・中学生時代であれば、行動が制限されることがほとんどである。
外にいられる時間やお金、行動範囲の制約が決まってくる。
だからこそ自分の”人生の軸”というのもおのずと限られてしまう。
大金を使った遊びに逃げることもできないし、どこか遠くの土地で現実を忘れることもできない。
自宅から学校の範囲内で過ごす必要がある。
つまり閉鎖的な環境で生きなくてはならない。
この現代社会であればインターネットという世界が広がっているが、それは極めて最近の話。
私が小学生のころですら発展途上の世界であった。
だからこそ家族や友人、学校というのは”人生の軸”になりやすい部分であった。
ただ貴樹と明里のように転校が多いとそうもいかない。
自分の軸となる友人や学校という場所から離れることを余儀なくされるのだ。
加えて、「大人」と異なる点は”人生の軸”が少なく、それを自分で選ぶことができないという部分が挙げられる。
子どもという閉鎖的な環境では「大人」たちのように思い切り逃げることも、何とかなるという経験則も少ない。
なおかつ、そうした選択を自分でできないという無力感が付き纏う。
そういった観点から、貴樹と明里は非常に孤独な存在であったといえる。
新しい学校、新しいクラスメイトがいるといってもそこはゼロからのスタート。
もちろん友人を作れたりもするだろう。
ただそれは受け入れられる人もいるが、そうでない人もいる。
特に小学生のノリというか空気感は独特。
さらには育つ場所が異なれば価値観もおのずと異なるわけで、自分はここの人間ではないという疎外感を味わっていたのかもしれない。
つまり、二人は自分の価値観を理解してくれる人物を心のどこかで探していたのである。
そんな孤独な存在だからこそ、貴樹と明里はお互いを補完し合った。
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