【感想/レビュー】『一ノ瀬家の大罪』「名前の重要性について」【考察】タイザン5

一ノ瀬家の大罪

中嶋勇希という存在

 第2話で学校に復帰する翼。

 自宅の様子から学校への不安を隠せない中で寄り添ってきたのは中嶋勇希である。

 着目ポイントの一つ目として、この時点では中嶋勇希は「中嶋」とだけ名乗っているという点である。

 自己紹介をするのであれば姓・名のどちらも名乗るのが一般的だろう

 しかも記憶を失っているのだから教えてあげるべき部分だ。

 それをあえて名乗っていないということは、名前で呼んでほしくはない≒親しくない交友関係を望んでいるという心理の裏返しであると考える。

 上下関係を築こうとしているのか、いじめをする側である距離感を掴みたいのか、どちらかなのではないかと思う。


 あるいは翼が主観で「中嶋」としか認識していない可能性も考えられる。

 この「主観が作品に取り込まれる」という手法は前作『タコピーの原罪』で使われている

 主人公・しずかがとある事情で東京に住む父親に会いに行くことになるシーン。

 しずかは大好きな父親に会えると期待し、辿り着いた住所で高層マンションを見上げる姿が描かれる。

 しかし、父親目線では一般家庭の屋根が見えることから、一般的なマンションであることがわかる。

 つまり実際には「一般的なマンション」であるが、しずか目線では父親への期待がこもっているため「高層マンション」に見えるという主観が入り込んでいるのだ。

 またそれまでは真っ白なTシャツで描かれてきたしずかが、父親目線になると薄汚れみすぼらしい姿として描かれる。

 つまりはその人物によって見方が変わる「主観」が作品に大きく関与しているのである。

 話が逸れてしまったが、このようにタイザン5氏は作品に「主観」を導入することもある。

 この名前をどう呼ぶのか、自己紹介をどうしたのかという部分にも「主観」が入り込んでいる可能性がある

 つまり、実際には「中嶋勇希」と翼に名乗っているが、翼自身が距離を感じている・親しいと思っていないため「中嶋」としか認識していないとも捉えられる

 そう言った意味では心の壁を精巧に表現しているなと感じる。

 一方で中嶋勇希からは「一ノ瀬」ではなく「翼」と名前で呼んでいる

 翼に「中嶋」と呼ばせている、あるいは「中嶋」と呼ばれていることから、翼→勇希には距離感を演出されていること対称的である。

 詳細は後述するが、翼との関係性・思い出を捨てきれないが故の呼び方であると思う。

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