今日の書評は是枝裕和さんの「万引き家族」。
是枝さんは有名なのは映画監督のほうであろう。代表作としては「そして父になる」や「海街diary」などを手掛けている。
この「万引き家族」は一時かなり話題となった映画である。カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールという最高賞を受賞、日本アカデミー賞でも再融資集監督賞・最優秀脚本賞を受賞をしているという第三者からみても申し分ない内容になっている。しかしここではあえて是枝氏が手がけた「万引き家族」を「小説」という視点で見ていきたいと思う。
〈あらすじ〉
東京のとある下町、高層マンションに囲まれた築50年越えの平屋の一軒家。そこには一つの家族が暮らしていた。
祥太は一人息子の小学生。彼の「仕事」は、店頭に並ぶまだ誰の所有物でもないモノをもちかえる、世間一般に言う「万引き」であった。
とある日、祥太と父・治は「仕事」帰りに小さな女の子と遭遇する。放っておけなかった治は、その女の子を実家に連れ帰ってきてしまう。
誘拐に着手してしまった万引き家族を待ち受けるものとは……。
〈感想〉
① 小説ならではの表現
最初にこの小説が面白いと思った点は、登場人物の細かい経歴が読めないという点である。推理小説などでは叙述トリックとして序盤にそうした情報を隠すということがあるが、この小説は首尾一貫して、そうした方式がとられている。
そのため、主役となる祥太、治、信代、亜紀、初枝の人物像がぼやけてでしか伝わらない。否、ぼやかして伝えているのである。そのため容姿はおろか、体形や年齢、性格までもはっきりとはしない。
この「ぼかし」が作用して、どこか親近感ゆえのリアリティーを感じさせるのである。
例えば表現を具体化するとよりイメージをしやすいが、読者の想像力が追い付けない・作者の表現力が足りない場合、真意が伝わらないまま物語が進んでしまう。
しかし今作は抽象化することによって、誰にとっても馴染みやすい「どこかにいるかもしれない家族」を感じることができる。「ぼかし」を導入することで、逆説的にペルソナが描きやすいのである。
② 小説の技法として
第三人称視点で描かれているが、その中でも「神の視点」で描かれている小説である。
一般的な小説であれば、一元視点という手法が使われている。第三者からの視点であるが、特定の人物に焦点を置いたものである。
「実はね、好きな人がいるの」 美香は突然話を切り出した。香織は胸がドキッとする音を感じた。
この場合、美香と香織を第三人称で描いているが、香織の「胸がドキッとした。」という文面からもわかるように、香織に主眼をおいている。このような書き方・視点を一元視点と呼ぶのである。
一方で、この小説は完全なる「神の視点」で描かれている。
主役という主役はつくらず、また心情の描写はできるだけ排除し、会話や情景をカメラで撮影しているようなイメージになる。
そのため、主人公を作らないスタイル=見たままを感じてほしいという是枝さんの意思を感じることができる。感情移入をあまりしない、ドキュメンタリーのような小説であるのだ。
是枝さんは以前はドキュメンタリーディレクターとして活動しており、苦しむ若者や福祉問題など、陽の光があたることない人物に焦点をあてた番組・作品を撮影していた。そのようなことを考えると、現代社会に未だ残り続ける問題を、客観的に見てもらいたかったのかなと考えられる。
③ 「家族」という存在について
この作品の大きなテーマはタイトルの通り「家族」である。家族というものの定義や在り方について強く厳しく描かれている。
まず「家族」というもののかかわり方に着目する。
この物語は父である治が「ゆり」という少女を家に連れてくるところから話は動く。
「ゆり」は恵まれているとは言い難い家庭に育っていた。父親と母親は常にけんかを繰り返し、母親はその当てつけに日々「ゆり」に対して暴行を繰り返す。
虐待が日常化しているなかでゆりは耐え続ける生活を強いられていたのだった。
一方、治の家に引き取られてからは、母・信代が虐待された経験があるということもあり、虐待されることはなくなるのであった。むしろ、「ゆり」にとっては平穏な日々が訪れる。
優しく接してくれる祖母、ちょっと年上の姉、頼りになる兄、そして愛情をくれる二人の親。
誰もがうらやむような「理想的な家族」に近い形である。
帰り道を父である治と兄の祥太と歩くノスタルジックな描写があり、また6人で海に行くという家族らしいイベントを開催する。
さて、ここまで見たときに「どちらが家族らしいか」という問題が生まれる。
多くのひとが後者である、と答えることだろう。しかしながら、後者のほうも「家族」であるのかというのは少々疑問が残る。
このことに関しては、登場人物の息子・祥太の心情でも表現されている。
とある夏の暑い日、幼い祥太はパチンコ屋の駐車場にて車の中で放置されていた。それを見つけた治が窓を割り連れ出しこれまで面倒を見ている。祥太は治にそのように言い聞かされていたのであった。
しかし、治がパチンコの駐車場に止めてある車の窓ガラスを割り、盗みをしているところに連れ出され、「自分も犯罪のついでに連れていかれてしまったのでは?」という疑念を持ち始める。
本作では治が祥太を連れ去った理由を明示せずに終わるが、個人的には助けようとして助けたわけではないと思う。
祥太だけではなく、この家族は何かしらの理由があって「家族」として生活しています。それはお金であったり、居心地の良さであったりと、エゴのためのつながりに過ぎず、協力して生きていたいからという慈しみの精神はあまり感じられない。結局のところ、見知らぬ他人が「家族」となるためには利益が必要なのかもしれない。
一方で、そんな「家族」として生活してきた6人の中にも、どこか「家族」に対しての愛を求めるような場面がある。
「大半のエゴとわずかな愛」
この6人は家族を求めるも家族になり切れなかった人の集まりのように感じた。みんな家族愛を欲し、憧れている。しかし生き抜くための利益集団という前提条件があるため、結局のところ家族にはなれなかったのだと思う。
この物語は「家族になれなかった家族の物語」、「どこか家族らしい、しかし家族ではない何か」に違いない。
皆さんはこの作品に触れてどう感じただろうか? 家族の定義とは何か、また「万引き家族」は家族であったのか?
〈総評〉
この作品は「家族」をテーマに描かれているが、私たちが一般的にイメージする「家族」とはかけ離れた、ダークな部分が全面的に表れている。普通で生きられなかった人たちの生きざま、生命力が表れている作品である。また、こういった悲惨な「家族」を生み出しているこの現状に対し、深く考えさせられる内容でもあった。理論や理屈ではなく感性に訴えかける、それでいて社会問題にも一石投じた作品。
この作品で、ぜひ「家族」という身近なテーマについて考えてみてはいかがだろうか。
〈書籍〉
『万引き家族』 是枝裕和 宝島社
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