伏黒の死生観からすると、将来に危険性を鑑みたとき虎杖を助けるという選択はしないはずである。
それにも関わらず、伏黒は私情で助けるという行動を選んだのだ。
この回答は「呪胎戴天編」の後半で明らかになる。
「不平等な現実のみが平等に与えられている」
Ⓒ『呪術廻戦』2巻 第9話「呪胎戴天-肆-」
伏黒は不条理なこの世の中を嘆いていた。
「善人」である伏黒の姉・津美紀は呪われてしまった、自分のことを放っておいた父親は生きている(と思い込んでいる)。
善人だから幸せを享受できるわけではないし、悪人が必ず罰を受けるとは限らない。
それはつまり善人であるにもかかわらず虐げられてしまうこともあるし、悪人でも幸福になりえるように、世の中は不平等なのだ。
だからこそ、伏黒は善人に幸せになってほしいという想いが根底にあった。
「オマエを助けた理由に論理的な思考を持ち合わせていない。
危険だとしてもオマエのような善人が死ぬのは見たくなかった。
それなりに迷いはしたが、結局は我儘な感情論。でもそれでいいんだ。
それは正義の味方じゃない。呪術師なんだ。
だからオマエを助けたことを一度だって後悔したことはない」
Ⓒ『呪術廻戦』2巻 第9話『呪胎戴天-肆-』
伏黒の「悪人は助けるべきではない」という考えは矛盾していたわけではなかった。
それでも虎杖を助けるという判断したのは、「悪人は助けるべきではない」という行動原理以上に、「善人こそ救われるべきだ」という価値観に近かったからだと考える。
似たような考えではあるが、意味は異なる。
悪人がどうしようもなく許せないというよりか、善人が救われることのない不平等で不条理な世界が許せないのだ。
こと救うという限られたリソースの中においては、リスクのある悪人を救うよりも善人を救うという手段のほうが現実的であろう。
もし伏黒がトロッコ問題に挑戦するのであれば、通常時は5人を助けるという選択をするだろう。
ただ5人の悪人と1人の善人であれば躊躇することなく1人の善人を助けようとすると考える。
伏黒は善人に対してはルールを無視し、私情を持ち込むほどには特別視している。
伏黒が虎杖を助けようとしたのは、呪術について無知にもかかわらず先輩や伏黒のために命を懸ける覚悟で助けに来たからだ。
伏黒はその善性に惹かれたのだった。
この場面に登場する“正義の味方じゃない。呪術師なんだ”というセリフに注目してもらいたい。
正義の味方が救いを求める人を全員助ける人物だとすると、呪術師はそうした定義づけがない。
つまり呪術師は人を助けるも助けないも自由だ。
だからこそ、伏黒は自分が善性を認めた人物だけを守ろうとする「呪術師」であることを強調している。
しかしながら虎杖の価値観に触れることで、自分を見つめなおすシーンも見受けられる。
虎杖が助けようとした少年院の少年の名札を持ち帰っており、家族に届けている。
法で裁かれるような「悪人」であったとしても一人の人間であるという人情味を感じている。
また、真希には「どんな人間を助けたいか」という質問をしている。
虎杖がすべての人間を助けようとし、圧倒的な善性が働いているのをみて自分の立ち位置を確認したかったのだと思う。
伏黒自身が正しい選択をしているのか、間違っているのか。それを相対的に確かめたのだ。
ここで一度は伏黒の価値観が揺らいでいることがわかる。
ただここで留意しておきたい部分は伏黒の正義感という価値観の一面性しか取り上げられてはいなく、具体的な部分・現実的な部分は無視されているという点だ
この部分については後述する。
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