宿儺の”魂”と伏黒恵の”肉体”
ここでいよいよ本題について触れようと思う。
前回も伏黒恵の肉体に関する記事を書いたが、それは特級呪物を取り込むという「器」(≒肉体の耐性)という観点で捉えていた。
宿儺の器としてつくられた存在である虎杖悠仁は、宿儺の指を20本取り込んでも自我を保てるだけの力があった。
それはこれまでの戦闘シーンで描かれているように、高専での花御戦を終えたときや、渋谷事変を終えてすぐに脹相と行動していることから、家入硝子による反転術式の治療を受けずにいる。
その回復力や頑丈さは作中トップであろう。
一方の伏黒は高専襲撃や起首雷同編や渋谷事変など、様々な場面で倒れているシーンが印象的だ。
もちろん敵の強さなども考えられるが、それを踏まえても虎杖と比べて伏黒は頑丈さが欠如しているといえるだろう。
その観点から『伏黒恵、器としての強度不足説』として記事を執筆した。
(詳細は下記の記事をみていただけると)
さらに深掘りし、肉体の耐性といだけではなく”肉体”と”魂”という視点で考えてみよう。
オガミ婆と禪院甚爾の出来事より、”肉体”と”魂”はバランスが重要であるということが示唆された。
どちらかが強すぎる場合には禪院甚爾が顕現したように崩壊が起きてしまう可能性が考えられる。
そのためあまりにも強大な”肉体”あるいは”魂”の場合には、それに対応するだけの”魂”や”肉体”を用意しなくてはならないのだ。
オガミ婆が見せた降霊術は”肉体”の情報を降ろすという術であるが、その逆の行為は「受肉」である。
「受肉」は魂の情報が込められている呪物を取り込む・取り込ませることで肉体を手に入れる行為だ。
つまり「受肉」の際にも、先に述べた”肉体”と”魂”の関係性は成り立つと考えられる。
実際に、宿儺の受肉には器を選ぶということが羂索の口から明言されているのだ。
「アレは特別。呪物と成ってその上20に分割しても尚、時を経て呪いを寄せる化け物だよ。
それ故に器を選ぶ。」
「フーンじゃあ、九相図は誰でもいいわけだ」
『呪術廻戦』7巻 第55話「起首雷同」
宿儺の”魂”は強力であるからこそ、それに耐えうる”肉体”が必要になるわけだ。
だからこそ羂索は器として虎杖悠仁という存在を用意していた。
つまりは宿儺が完全に受肉するためには、宿儺の”魂”に耐えられるだけの”肉体”ではなくといけないということである。
そして伏黒恵の”肉体”は、宿儺の”魂”を収めるにはあまりにも役者不足である。
特に最終的な勝負は肉弾戦と言われるなかで、この爆弾を抱えている宿儺が不利を被ることは間違いないだろう。
今後の展開にも期待していきたいと思う。
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